2009年06月26日

ブッシュ政権の情報操作疑惑

後に元財務長官のポール・オニールが「政権開始当初からイラク戦争の計画はあった」と「暴露」[18] した。開戦時のCIA長官だったジョージ・J・テネットは「ブッシュ政権内でイラク開戦前に同国の差し迫った脅威について真剣な協議は行われなかった」と自著で証言している。さらに、ジョセフ・ウィルソン元駐ガボン大使が2003年7月6日付けのニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した記事に端を発したプレイム事件によって、ブッシュ政権がイラクの脅威に関して意図的な情報操作(フレームアップ)をしていた疑惑が濃くなっている[19]。

ブッシュ大統領は開戦前後の演説における戦争理由として以下を挙げた。

生物・化学兵器等、大量破壊兵器を保有し続け、その事実を否定し、国連の武器査察団に全面的な協力を行わない(部分的な協力に止まっている)ことに対する武力制裁のため。
イラクの一般市民をサッダーム・フセイン大統領の圧政から解放するため。
テロリストに対する支援国であるイラクを「民主的な国」に変えるため(対テロ戦争の一環)。

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イラクをサウジアラビアの軍事基地の代替地として確保し、サウジから米軍部隊を移転することでムスリム(イスラム教徒)の反米感情を和らげ、テロの発生を予防する。ビンラディンは湾岸戦争の際、イスラム教の聖地メッカのあるサウジに異教徒の軍隊(米軍)が駐留したことに激しい衝撃を受け、米軍のサウジからの撤退という要求を掲げて反米テロ闘争を開始し、ついには911テロへと至った。しかし米国は、フセインの脅威から同盟国を守る為という名目で、湾岸戦争後も引き続きサウジに部隊を駐留していた為、テロリストの要求に屈服したという印象を与えることなく、サウジから部隊を撤退させるには、どうしてもフセインを排除する必要があった。
イラクを民主国家にし、資本主義経済を根付かせる事で将来起こるであろう石油枯渇による中東経済の混乱を最小限に抑える。
イラクを親米化する事で中東(イラン、シリア、その他反アメリカ諸国)に「民主化のドミノ倒し」を起こさせる(いわゆるドミノ理論)。これがイラク戦争の最大の目的だと言う見方がある。ブッシュ政権中枢で影響力持ちイラク戦争を強く支持したネオコングループでは、フセインがアラブ世界で支持されることがイスラエルの危機につながると考えられていた。イスラエルは親パレスチナ、反イスラエル路線のフセイン政権を脅威と見ていたから、国民レベルでも開戦支持が反対を上回った数少ない国の一つだった[20]。イスラエルは、イラクを穏健路線のヨルダン王家に統治させる戦略を打ち出していた。そのため、イスラエルがロビー活動で開戦を働き掛けたと指摘されている[21]。

2009年06月10日

海里、浬(かいり、nautical mile、sea mile)は

海里、浬(かいり、nautical mile、sea mile)は、距離の単位である。海面上の長さや航海・航空距離などを表すのに使われる。

元々の定義は、「地球の大円上における1分の長さ」であった。しかし、地球が真球でなく回転楕円体に近いため1分角の長さが一定ではないことや、測量誤差により、さまざまな定義が生まれた。

(旧)英海里 ((old) admiralty mile) = 6082フィート = 1853.793メートル。緯度1分の平均。
(新)英海里 ((new) admirality mile) = 6080フィート = 1853.184メートル。緯度48度での緯度1分。
国際海里 (metric nautical mile) = 1852メートル。ベッセル楕円体の極と赤道の距離の90×60分の1。
米海里 (US nautical mile) = 6080.20フィート = 1853.248メートル
大陸式海里 = 6974.5フート = 2125.8276メートル
電信海里 = 6087フィート = 1855.3176メートル
データマイル (data mile) = 6000フィート = 1828.8メートル
現在は、国際海里(正確に1852メートル)が世界中で使われている。この定義は、1929年にモナコで開かれた国際臨時水路会議 (International Extraordinary Hydrographic Conference) で採用された。アメリカは1954年、イギリスは1970年に国際海里を受け入れた。
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海里は赤道上における1分の長さであるので、海里は子午線上での緯度の差として表れる。

単位表記はM , NMまたはnmiである。この他nmが航空関連の距離表記として慣習的に用いられ、ナノメートルの意味としても使われるが、使用される状況が異なるので、実際には混乱はほとんど生じていない。

日本においては、「海上で使われる里」という意味で「カイリ」という言葉が作られ、「浬」という文字が作られた。当用漢字に「浬」が含まれなかったために、片仮名で「カイリ」と書くことも一時行われたが、今日では原義に合わせて「海里」と書くのが一般的である。

毎時1海里の速度をノットという。すなわち、1ノットは1852メートル毎時である。

国際単位系(SI)においては、定義に中途半端な1852という値が含まれているのでSI単位に含めていない。世界中で広く使われていることから暫定的にSIと併用しても良い単位とはしているが、SI単位(この場合はメートル)との対応関係を示さなければ使用できないとしている。日本の計量法では、「海面又は空中における長さの計量」に限定して使用を認めている。

2009年06月06日

秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたかった

秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたかった島津義弘は1586年(天正14年)6月筑前侵攻を開始、筑前の西半を制圧する。残るは高橋紹運の守る岩屋城、立花宗茂の守る立花城、高橋統増の守る宝満山城のみであった。7月、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の抵抗によって攻めあぐねた末、なんとか攻略する。島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す大誤算だった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め包囲を解き、豊後侵攻へ方針を転換した。この際立花宗茂は撤退する島津軍を追い高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還している。

一方、秀吉は同年9月に毛利氏に出陣を命じ豊前へ向かわせた。また十河・長宗我部氏にも豊後へ出陣させ大友氏と合流、島津氏の豊後侵攻軍と正面衝突することとなる。最初のうちは大友氏の内訌等もあり、島津氏優勢に進行。特に12月の戸次川の戦いにおいて、仙石秀久を軍監とする豊臣方は長宗我部信親、十河存保などの有力武将を失う大敗を喫した。

島津軍は勢いづき大友義統が放棄した府内城を陥落させて、宗麟の守る丹生島城を包囲した。丹生島城は、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲(石火矢)の射撃もあり、なんとか持ち堪えた。
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宗麟は秀吉に出馬を何度も促し、翌天正15年(1587年)正月、秀吉は九州侵攻の軍令を下し、3月には自らも出陣、肥後方面を秀吉が、日向方面を弟の秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍した。秀吉上陸を察知した島津軍は北部九州を半ば放棄、島津氏の支配が表面的な占領軍政に過ぎなかったこともあり、瞬く間に島津氏の支配している城を陥落させる。島津氏は、後退を続け薩摩の守りを固める方針に変更する。

秀長率いる軍は豊後を経由し日向に入ると県を経由し山田有信の守る高城を包囲する。島津義弘が救援に向かうが、根白坂の戦いで島津忠隣が戦死するなどの大敗を喫し、高城は陥落する。さらに豊臣秀次は都於郡城を攻略し三ツ山と野尻の境界にある岩牟礼城まで侵攻した。義弘は飯野城に籠り徹底抗戦を装った。

一方秀吉は秋月種実の岩石城を攻略、島原方面では有馬晴信の調略に成功した。島津忠辰は高田を放棄して出水にまで撤退する。秀吉は八代、水俣を経て島津方の予想を上回る速さで出水にまで進軍し、出水城主島津忠辰を降伏させた。さらに島津忠長を蹴散らし川内の泰平寺に本陣を置く。4月、島津義久が泰平寺に赴き降伏した。

2009年04月23日

ロベール2世 (フランス王)

ロベール2世(Robert II, 972年3月27日 - 1031年7月20日)は、カペー朝第2代のフランス国王(在位:996年 - 1031年)。「敬虔王(le Pieux)」と呼ばれる。ユーグ・カペーとその王妃であったアキテーヌ公ギヨーム3世の公女アデライードの息子。

ロベールは972年3月27日にオルレアンで生まれた。987年12月30日、ユーグ・カペーはオルレアンでロベールに対して共治王として戴冠させ、カペー家による王位世襲を諸侯に確認させた。ロベール自身も即位後に長男ユーグに対して戴冠させたが、彼はロベール2世よりも先に死去したため、王位を嗣いだのは次男アンリとなった。

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ロベール2世は自身の結婚問題で一時ローマ教皇グレゴリウス5世によって破門されたことがあるにも拘らず、「敬虔王」の名が示すとおり極めて信心深い王だった。彼は宮殿の一角に礼拝所を作り王服をまとって朝課や晩課を行ったほか、異教徒に対して厳しい政策をとった。

当時のフランス王国は極めて狭い範囲しか統治していなかった。ロベール2世は王領を拡大すべく継承者不在となった諸侯領を併合しようとしたが、これは対立する継承権者との戦いを招いた。1003年のブルゴーニュへの出兵は強い抵抗を受け、教会の支援を得てこの地を手に入れたのは1016年だった。

ロベール2世の政策は多くの敵を作ったが、彼の息子もその例外ではなかった。長男で共治王のユーグは自ら単独王となるべく反乱を起こした。ユーグは1025年に急死するが、続いて次男アンリと三男ロベールにも反乱を起こされた。敗れたロベール2世はパリからボージャンシー(ロワレ県)へ退却した。そして1031年7月20日、ムランで息子と戦っている最中に戦死した。

ロベール2世は3度結婚した。最初は989年頃にイタリア王ベレンガリオ2世の王女でフランドル伯アルヌルフ2世の未亡人であったシュザンヌと結婚したが、翌年離婚した。次いで996年頃にブロワ伯ティボー2世の未亡人ベルトと結婚したが、彼女が従姉妹であったためローマ教皇グレゴリウス5世は結婚を認めず、ロベール2世が破門される原因となった。これは次代の教皇シルウェステル2世との交渉の末、婚姻の無効が宣告された。最後の王妃は1001年に結婚したアルル伯ギヨーム1世の娘コンスタンスで、彼女との間にアリックス(ヌヴェール伯ルノー1世妃)、ユーグ、アンリ(後のフランス王アンリ1世)、アデル(ノルマンディー公リシャール3世妃、のちフランドル伯ボードゥアン5世妃)、ロベール(後のブルゴーニュ公ロベール1世)らをもうけた。

2009年04月22日

アメリカの統治による琉球政府

戦争終結後、アメリカ政府は沖縄県は独自の国で、日本に同化された異民族としてアメリカ軍政下に置いた。しかし、朝鮮戦争の勃発によってアメリカ政府の琉球に対する見方は「東アジアの要石」へと次第に変化し最前線の基地とされると、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。旧日本軍の施設以外に、米軍は軍事力に物を言わせ、住民の土地を強制的に接収した。いわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」である。

1952年(昭和27)4月28日発効の日本国との平和条約で、潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。アメリカは琉球政府を創設して軍政下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。この状況に対し、県民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、また、このころから県民は日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、このころの米大統領アイゼンハワーは、返還する気は全く無かったようである。

1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。1968年(昭和43)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

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日本の施政下へ
日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45)に予定される安保延長と共に、沖縄県の本土復帰を緊急の外交課題とした。このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼や学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意を汲み取ることにはならなかった。

1970年(昭和45)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上アメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。アメリカ政府にとっては、日頃温厚と見ていた人々が暴動をおこした事に強い衝撃を受けた。

1969年(昭和44)の日米首脳会談では、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束した。屋良朝苗や復帰賛成派の県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還とされ、佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した。1972年(昭和47)5月15日に琉球政府は沖縄県となり、日本へ復帰した。

また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2,000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7,500万ドルが含まれていた。県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。このため一部の沖縄県民には、「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つ者、琉球独立論を唱える者もいる。また、この本土復帰を日本による琉球再併合と規定し、沖縄返還ではなく第三次琉球処分と呼ぶ者もいる。

日本への復帰を記念して、1973年(昭和48)には若夏国体、1975年(昭和50)には沖縄国際海洋博覧会が開催された。しかし、観光以外にこれといった大きな産業がなく、日本で一番完全失業率が高い状態が長年続いている。このため、沖縄県では1998年(平成10)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX(Internet Exchange)の語に掛けて IT Exchange 等の呼びかけを行ない、コールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行なっている。その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴なわないとして箱物行政といった話題も多い。また、2000年(平成12)には主要国首脳会議(サミット)が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。

文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代に沖縄アクターズスクールが安室奈美恵をはじめとする多数の歌手を輩出し、全国的な人気を博した。その後も若手の女優が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。

一方、現在も在日米軍の基地が多くあり、日本にある在日米軍基地の75パーセント(面積比)が沖縄県に集中するという歪な構造となっている。これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による県民への暴行事件などがしばしば起きている。とくに1995年(平成7)の少女強姦事件は、治外法権の認められた基地に逃げ込んだ容疑者を沖縄県警が確保できない事態となり、日米地位協定の理不尽さを露呈させた。強姦事件により県民の間には米軍基地の早期返還を求める声が再度強く挙がり、これを受けて1997年(平成9)に日米両政府は普天間飛行場の全面返還を発表したが、移転先の選定が難航した。2004年(平成16)に普天間飛行場所属のヘリコプターが大学構内に墜落した事故は、同飛行場の危険性を危惧する世論を再燃させた。2006年(平成18)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍再編が決定したものの、実現には課題が少なくない。一方、永久に続く超大国は歴史上なく、遠い将来仮に米軍が撤退すれば沖縄県に基地が集中することは、なくなるだろうが、国境地帯という立地にかわりはない。

2009年04月05日

ルーレット

ルーレットは仏語で「小さい輪」の意。転じて、

数字を記した小区画を設けた回転盤に手球を投げ、落球区画を予想する遊戯、あるいはその遊戯に用いる回転盤。:ここにて詳述
小さい丸鋸様歯車に柄をつけた形状の手芸・謄写版用具。歯車を転がし点線様の傷をつけることにより、型紙より生地へ型の複写を行ったり、謄写版に点線を引いたりするのに用いる。ルレットとも。
サッカーのフェイント技。ドリブルの途中、両足の裏でボールを転がしながら一回転をし、プレスに来た相手選手をかわす技。元フランス代表のジダンが多用した技として有名。
なお、1発だけ弾丸を込めたリボルバー式拳銃を使用し、交互に引き金を引いてどちらが先に死ぬかを競うロシアンルーレットは、ルーレットとはまったく異なるゲームである。

ルーレット(Roulette)とは、回転する円盤に投げられた球がどこに落ちるかを当てるゲームである。カジノゲームの代表とも言える著名なゲームであり、ルールが簡単であるため、初心者でも十分プレイ可能なのが魅力である。

ホイール(回転盤)には1?36, 0, 00(注)の数字が記されており、おのおのにボールの落ちる場所(ポケット)がある。また、数字の背景には赤か黒かの色がついており、特に赤のことをルージュ(rouge)、黒のことをノワール(noir)と呼ぶこともある。

なお00の有無で二通りの様式があり、ホイールだけでなくテーブルデザインやオッズも異なる。カジノによっては双方を用意している場合もある。

ヨーロピアンスタイル - 0がある
アメリカンスタイル - 0、00がある
メキシカンスタイル - 0、00、000がある

ゲームの流れ [編集]
ディーラーがベルを1回鳴らし、ベット開始をプレイヤに知らせる
プレイヤはめいめいベット(チップを賭けること)を行う
ディーラーはホイールを回転させ、ボールを投げ入れる
プレイヤは追加でベットを行う。あるいは 1. で行ったベットの変更を行う(どちらも、ハウスによっては行えないルールもある)
ディーラーは、ある一定時間が経過したらベルを2回鳴らすか、あるいはテーブルを撫でるような仕種を行い、これ以上はベットができない旨をプレイヤに知らせる(ノー・モア・ベット)
ボールがポケットに落ちたらディーラーはただちに宣言を行う(例:「Red 9」)
ディーラーがオッズに従って配当を行う。同時に、テーブル上のチップを回収して次のゲームが行える状態にする
1に戻る
チップには通常のチップでなくルーレット専用のものを利用する。これは、プレイヤごとに色分けされている。

ベットは球が投げ入れられる前でも後でも良い(普通は、投げ入れられた後に行う)。ただし、アジア地域などの一部のカジノでは投げ入れられる前にしか賭けられないと定めている場合がある(このルールは客側に大きく不利である。このため、このルールを採用する場合は客離れを防ぐため、ディーラーではなく機械がボールを投げ入れる機械式のホイールを使用することがある)。

なお、不明瞭なベットや締め切り後のベットはファウルとして没収される。

オッズテーブル [編集]
ルーレットのベットには、赤か黒か、奇数か偶数かの配当2倍に賭けるものから、1枚賭けと呼ばれるある唯一の数が出ることに賭ける配当36倍まで、様々なオッズが存在する。オッズごとの配当はテーブルに記述されている。なお、0(00、000を含む)は緑色であり、偶数や小とは認められず、アウトサイドベットに対してはディーラーの総取りとなる(オーストラリアスタイルのように、元返しとなるルールもある)。
インサイドベット
1目賭け - 特定の数字1つに賭けるやり方。配当は36倍。
2目賭け - 隣り合った数字2つに賭けるやり方。配当は18倍。
3目賭け - 横一列の数字3つに賭けるやり方。配当は12倍。
4目賭け - 十字の4方向にある数字4つに賭けるやり方。配当は9倍。
5目賭け - 横2列の数字5つ(0、00、1、2、3)に賭けるやり方。配当は7倍。唯一期待値が異なる(不利な)賭け方である上に、ハウスによっては6目賭けと同配当とするところも存在する。この賭け方を認めていないハウスも多い。
6目賭け - 横2列の数字6つに賭けるやり方。配当は6倍。
アウトサイドベット
縦一列 - 縦1列の数字12つに賭けるやり方。配当は3倍。
大中小 - 1?12、13?24、25?36のどれかに賭けるやり方。配当は3倍。
前半・後半 - 1?18、19?36のどれかに賭けるやり方。配当は2倍。
奇数・偶数 - 奇数か偶数のどちらかに賭けるやり方(0、00を除く)。配当は2倍。
赤・黒 - 赤色の数字か黒色の数字のどちらかに賭けるやり方。配当は2倍。

遊び方の目安 [編集]
基本的にどのようなベットをしても控除率は一定である(機械式、またはディーラーが無作為にボールを投げる場合)。アメリカンスタイルの場合は 5.3% (2/38)、ヨーロピアンスタイルの場合は 2.7% (1/37)。

主なスタイルとして、オッズが低く当たりやすいベットを多額で狙う、賭けることなくチャンスを待ち(一般にこれを「見」と呼ぶ)ここぞという時に勝負する、通りすがりに一枚賭けで大勝負、などがある。

クラップス同様、他のシリアスなゲームの緊張感をほぐす意味で遊ばれることもある。多くのカジノでは出た数字の履歴を表示するボードが用意されているので、必要であれば参照することも可能である。

ただし、期待値でなくその分散をコントロールすることは可能である。大勝でなければ大敗やむなし、少しでいいから勝って帰りたい、などのスタンスにあわせて、マーチンゲール、逆マーチンゲール、ダランベールなどのベッティングシステムが提案されている。有料で販売されているベッティングシステムも存在する。

ディーラーがボールを任意の場所に入れられるかどうかは未だ議論の的となっている。これは、非存在証明の難しさが影響している可能性がある。ただし、ディーラーが無作為にボールを投げる場合と意図的に出目を狙える場合ではゲーム性が大きく異なってしまう(手本引きと賽本引きほどの差がある)。

ディーラーが無作為に(または機械式で)ボールを投げる場合は単なる確率のゲームであり、出目表などからの予想も単なる楽しみ方の一つに過ぎないが、ディーラーが意図的に出目を狙えることを前提とした勝負では、ディーラーとプレイヤーの間で高度な読み合いが展開される(ただし、ボールを投げる前にベットが締め切られるルールでは事実上ディーラーの必勝となってしまう)。ディーラーが出目を狙えるという前提でのプレイのほうが、ゲームに深みがあり面白い物となるが、代わりに初心者には厳しい、本来の特徴を失ったものとなる。

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2009年03月21日

長距離列車のほとんどは夜行列車である

アメリカ合衆国
アメリカ合衆国は、その国土の広さから、長距離列車のほとんどは夜行列車である。かつては大量の夜行列車が運行されていたが、現在では国内の移動の主流が飛行機となってしまったためにその本数を大きく減らしている。アメリカには複数の鉄道会社が存在するが、夜行列車はアムトラック(全米旅客鉄道公社)が運行する。しかし、その本数はそれほど多くない。夜行列車は毎日、もしくは週3日運行され、全行程は2日(1泊2日)から長いものでは4日(3泊4日)を要するものまでさまざまである。座席車のみの列車も存在するが、多くは寝台車と座席車を併結し、主に観光客を対象としている。他の長距離路線同様、ダイヤは乱れやすく、単線区間でのすれ違いや車両到着の遅れからくる時間の運行の乱れが大きいため、ビジネス目的の移動には適さない。寝台車の場合、食事料金は料金に含まれており、乗車区間によって数回の食事が供される。
フラッド キャロ メッカ 輝きの季節 テアーゼ 上位シーン 枕千鳥 フェラテ マドラス ロマン カーボン ランク ソーホー タンプ パーティー タック ルトップ ハバナ スプレッ エンド オキサ スフマート らくだいろ ブタン カゲル キタス スタジャン ランチ シーネ ネッキ アビリテ オルガス ばなな みなせ クローバー キジムシ ガマ対策 モンテ ローコード コック ツァボラ メーター ごぼう ピギー ランナー エルシー こもづの チャド かてい ブルジュド

カナダ
カナダではアメリカのアムトラックに相当するVIA鉄道が夜行列車を運行している。その形態はアメリカと似ているが、二大都市圏であるトロントとモントリオールを結ぶ夜行列車ではビジネス客を意識したサービスを提供している。

ヨーロッパ諸国 [編集]
ヨーロッパでは、高速夜行バスが日本ほど発達していないために、現在も夜行列車が多く運行されている。多くの国が陸続きにあり、かつそれぞれの国があまり大きくないという地理的事情から、国際夜行列車も多い。ほとんどの夜行列車には寝台車と座席車の双方が連結されている。利用者は観光旅行者およびビジネス客の双方にわたる。国際夜行列車の場合には、乗車時に車掌がパスポートを回収し、夜中の出入国手続きを旅客に代わって行い、翌朝の国境通過後に返却する。区間設定は大都市を結び、実際の走行距離があまり長くない場合もある。その場合国境付近の町で時間調整のため長時間停車することが多い。ちなみに、国際夜行バスとしてユーロラインズ社のネットワークはあるが、国内完結の夜行バスは少ない。

ヨーロッパの夜行列車は、それぞれの国の国内列車と国際夜行列車の二つに大別される。鉄道が民営化し、夜行列車運行の独立会社が設立された関係もあり、サービスの質はさまざまである。たとえば、ドイツ鉄道やオーストリア鉄道ではウェルカムドリンクおよび朝食は料金に含まれるが、イタリア国鉄では朝食は別料金となる。

飛行機の普及以降、1980年代までは夜行列車の食堂車のサービスは削減される一方であったが、1990年代以降はユーロナイトなど復活の傾向も見られ、ドイツ国内やドイツと周辺各国を結ぶシティナイトラインなどの夜行列車や、フランスとイタリア(アルテシアナイト)・スペイン(タルゴ・トレンホテル)を結ぶ夜行列車では、食堂車やビュッフェ車の連結が見られる。

ヨーロッパの多くの国の国内夜行列車は、廉価な長距離列車として運転されている列車が少なくない。こうした夜行列車はクシェット(Couchette)と呼ばれる簡易寝台車を連結している。クシェットの寝台料金は20ユーロ弱と極めて安価であり、庶民の気軽な長距離旅行手段として親しまれている。

クシェットは、日本で言えば開放式の3段式のB寝台車であり、1区画6名となっているが、一部には2段式4名のものもある。多くの場合は男女同室となるが、スペインでは男女別に部屋が分かれている。

フランスの国内夜行列車は「コライユ・ルネア」の名称で統一されており、Web限定の安価なクシェットの切符などを発売している。国土が広く、高速化が遅れているスペインでは、クシェットをつないだ夜行急行が数多い。バカンスのシーズンとなると、国内・国際列車問わずクシェット寝台は盛んに利用されている。

ロシアは圧倒的に広大な国土であるために、夜行列車が頻繁に運行され、9297kmのシベリア鉄道にモスクワ?ウラジオストクまで超長距離列車の『ロシア号』がある。またロシアの夜行列車はヨーロッパ、CIS、モンゴル、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国とも直通運転している。
アジア [編集]
中国やインドでは航空路線網や高速道路網が十分に発達しておらず、現在でも鉄道輸送の占めるシェアは大きく、多くの夜行列車が運行されている。アメリカ・カナダ同様、国土が非常に広大であるため、3?4日間をかけて運行するものも目立つ。

韓国では主要幹線に夜行列車(ムグンファ号車両使用)が運行されている。国土面積の関係で国内移動の際の移動距離が概ね500km以内であり、運転時間が短いため、座席車が主体である。なお、近年まで寝台車を連結した列車存在したが、一部の特設列車を除き、全廃されている。

またそのほか東南アジアなどの発展途上国でも、やはり高速道路網が未発達のために、1960年代の日本同様に鉄道輸送が主力で、夜行列車も多い。

アフリカ [編集]
アフリカは、先進国のように鉄道が発達している国は少ないが、長距離路線を中心に夜行列車の運行がかなり見られる。 南アフリカ共和国では、世界で一番豪華といわれるブルートレイン (南アフリカ)等多くの夜行列車が運行しているほか、モザンビークへの国際ローカル列車などもある。 その他、ザンビアのカピリムポシとタンザニアのダルエスサラームを結ぶタンザン鉄道(TAZARA、タンザニア・ザンビア鉄道)等で夜行列車が運行している。

2009年03月06日

イロコイ族の女性達

独立戦争はイロコイ族にとっては特に大きな問題となった。イロコイ連邦の諸種族は当初アメリカ独立戦争に対し中立であろうと努めた。イロコイ族は他の多くの先住民と同じく、紛争には何の利点も見いだしていなかった。むしろ先の七年戦争に参加したことによって、逆境に陥ってもいた。しかし、ウィリアム・ジョンソン卿の説得によって、幾つかの種族がイギリス側に荷担することになった。

この同盟の結果、大陸軍のジョン・サリバン将軍の遠征隊によって、今日のニューヨーク州北部の約40の村が焼かれ完全に破壊され、多くのイロコイ族住人が追放された。この結果、先住民女性達が育てていた数百エーカーの土地の作物と果樹が失われ、その後に続く飢餓で多くのイロコイ族が殺された。

チェロキー族の女性達
七年戦争では、チェロキー族はイギリス軍とともにフランスと戦い、アメリカ独立戦争では大陸軍に対して戦うことに決めた。これは土地に飢えた愛国者開拓民の蚕食を防ぐためという理由が大きかった。独立戦争中はチェロキー族が特に大きな被害を受け多くの男達が殺されたために、多くの寡婦ができてしまった。戦争終結後チェロキー族の女性の数は男性の数の10倍にもなったという試算もある。この両性の数の違いは戦士の位置付けを上昇させチェロキー族社会の両性の役割と力関係を変えたという歴史家もいる。

チェロキー族は多くの意味でアメリカ先住民の経験した途方もない例であるが、最も変化し積極的に「文明化」を取り入れた集団でもある。多くのチェロキー族男女が完全に白人社会に融け込んだ。しかし、1830年に制定されたアメリカ・インディアン移住法によって、「涙の道」を辿って移住を強制され、現在はオクラホマ州に住んでいる。新政府の同化政策に強く抵抗したチェロキー族もいた。

結局、チェロキー族のように強制移住させられた先住民は独立戦争中にアメリカ愛国者側についたといっても結果は変わらなかった。愛国者側についた者も、イギリスについた者も、また中立であった者も一様に強化された居住地制限を課されることになった。

カトーバ族の女性達
アメリカ独立戦争の前、カトーバ族とヨーロッパ系移住者の間の関係は用心しながら敵対的なものであり、どちらも開戦に興味を抱かなかった。土地の所有問題での緊張が紛争を生んだ。開拓者達が私有地と信じ土地の周りに柵を張り巡らせる一方で、カトーバ族は何者も土地の所有権を主張できないものと信じて柵を倒してしまった。カトーバ族の男達は「ゲーム」を求めて辺りをうろつき回り、開拓者達は狩人を侵略者と見なして狩りの宿営地を壊した。開拓者達は新しい農耕法ももたらし、カトーバ族の生活様式を変えた。どの社会も農耕に深く依存していたようにカトーバ族もその存続の道を農耕の追求に変えていった。この変化は男達が狩りをする傍らで農耕に励んでいた女性達に特に影響した。他の部族のようにカトーバ族は伝統的な生活様式を維持できなかった。生き残るためには開拓者との共存の道を探らねばならなかった。カトーバ族の女性が作った生活用品を開拓者達と取引し、伝統工芸が益の出る事業に変わった。1772年頃にはカトーバ族の女性達が工芸品を持って開拓者達の家に売り歩いた。

カトーバ族が開拓者達との関係を改善する最良の道はアメリカ独立戦争に参加することだった。その居住地の位置から見て選択肢はあまりなかった。南部先住民の監督者ジョン・スチュアートは1775年に「彼らはノースカロライナとサウスカロライナの開拓地に散らばって住んでいる」と記録した。1775年7月、2人のカトーバ族がチャールストンを訪れ、王党派と植民地人の争いについて多くを学んでいった。植民地人の安全委員会は植民地の不満を説明する文書を携えた代表団を派遣し、カトーバ族が南部カロライナと友好を保つこと、交易を続け働いてくれたカトーバ族には賃金を支払うことを伝え、カトーバ族が協力を拒めば何が起こるかを警告した。それに続く8年以上の間、カトーバ族は愛国者側で戦い、愛国者側に対する忠誠を示しもした。イギリス軍は先住民を家から追い出し、村や作物を破壊した。

独立戦争中カトーバ族の戦士は南部の多くの戦いで大陸軍について戦った。家に残っていたカトーバ族は愛国者達に食料を供給した。カトーバ族においても伝統的に女性と子供達が農業に携わる役目であったので、戦時に愛国者側に供給する責任が女性達に重く課せられた。カトーバ族の中にはその隣人、他の種族に非公式の外交大使となったものもいた。その一人がサリー・ニュー・リバーという女性で、同族の人からもまた土地の白人からも敬意をもって迎えられた。訪問者が予告無しに到着した時、リバーは準備ができていると請け合った。リバーは家長がカトーバ族の土地を初めて賃貸した白人であるスプラット家との付き合いが長かった。彼女の死後50年経っても、土地の白人達は「老いたるサリーおばさん」と言って懐かしんだ。

しかし全体的に見て、カトーバ族の戦争における役割は「むしろ無視できる」程度のものだった。戦争に参加した者の数も少なく、この種族が戦闘の勝敗を決するようなことはなかった。カトーバ族の貢献の意味はその活動的で目に見える支持であった。愛国者側との同盟は急速に変化する環境への適応を容易にした。1782年に州政府は夏を乗り切るためのトウモロコシ500ブッシェル (1760 リットル)を送り、軍隊に協力した者に給与を支払い、供給した物資に対する補償を行った。しかし、カトーバ族に対する開拓者達の一時的な親密感は将来を保証するものではなかった。先住民はキリスト教に対する無関心を続け、カトーバ族の中から選ばれた者をウィリアム・アンド・メアリー大学で教育し彼らが村に帰って改宗しあるいは他のものを改宗させることを期待していた開拓者達をいらつかせた。この努力は失敗したが、先住民の劣等性について一般の感情をかき立てる役割は果たした。
オーチャド ライカ フリー カクタス とかく の波 くつわむし ウォーム 聖護院かぶ デッドラ ジッダ プチ フェイク カプジ ビドム ニウム ぽぽー タンメン チエンマ かなぎ オファー アパシー スコープ ネバー ウーマンレディー イースター トーキー シュリ なっぷる 愛燦燦 マース マズルカ オシレ ラミンゴ バンス チーズバ スナイ サラセニ グリーン 夜長鳥 アバウト プレース バイアス デカダンス フラクタル シーケ イヌビユ パートナ 新秋柿 ノッキング

カトーバ族と開拓者達の間の関係は、カトーバ族が愛国者側で戦うと決断したにも拘わらず、長い間改善されなかった。独立戦争の後で、以前先住民から土地を借りていたものが所有者になることを要求した。1830年代には、サウスカロライナ議会が土地の売却について交渉団を派遣した。続く圧力と合衆国政府の移住政策により、1840年の春、ネーション・フォード条約の調印ということになった。この条約では、カトーバ族は144,000エーカー (576 平方km)の土地をサウスカロライナに譲渡することになった。この同意によってカトーバ族の国家は絶えた。サウスカロライナ州知事デイビッド・ジョンソンは1847年にカトーバ族について「国家として、彼らは事実上解体された」と語った。

2009年02月14日

ね〜PON?×らいPON!

ある時、主人公の少年が目覚めると彼は見たこともない不思議な世界にいた。元いた世界もどうして来たのかも覚えておらず、名前しか覚えていない主人公。突然の状況に戸惑う彼の前に不思議な姿の少女たちが現れる。彼女達が説明する所によると彼はある記念の特別なお祭りに招かれたようだ。そして、異世界の10日間、彼は不思議な少女達と衣服を巡って、ゲ?ムで勝負することになる。
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ

マロン(声優:北都南)
容姿通り、幼く、子供っぽい。甘えん坊だが、結構腹黒い発言をする。
エクレア(声優:佐々留美子)
引っ込み事案で人見知りが激しい。そのため、好きになると純粋さから暴走しがち。
マドレーヌ(声優:久米川多慧)
このメンバーでは一番の年上でまとめ役を引き受ける。面倒見がよく、慕われる。
ティラミス(声優:安玖深音)
高貴な家柄出身のお嬢様。故に俗世間に疎く、とんでもないことを言って周りを混乱させることもある。

フルーツパーティ
キャラクター名は果物の名称から。

花梨(かりん)(声優:木村あやか)
マイペースで独自の感覚・世界観を持つ。その発言は周りを混乱させる。恋愛話や性の話題に疎い。
玲貲(れいし)(声優:加賀ヒカル)
冷めていて尚且つけだるげな喋り方のナイスバディの姉的存在。性格は堅実であり、将来のこともよく考えている。
夏姫(なつめ)(声優:岩田由貴)
わがままで態度がでかく、生意気。しかし、好きな相手には従順さを見せる。いわゆるツンデレ属性。
林檎(りんご)(声優:涼森ちさと)
計算高い性格。勝ち負けが表情や態度ですぐ分かる。

ミックスジュース
キャラクター名はソフトドリンクの名称から。

ココア(声優:姫香)
見た目の明るさと裏腹に皮肉屋で怒らせると怖い。
キャロット(声優:鈴田美夜子)
優しく、おっとりした雰囲気の少女。常に笑みを絶やさない。
ラムネ(声優:綾川りの)
寡黙でクール。女扱いを嫌い、男性を軽蔑する。性の話題にはウブで弱い。
レスカ(声優:秋月まい)
優しい真面目で何事にも一生懸命なドジッ娘。素直なのでよく周りからこき使われる。

カクテルパーティ
キャラクター名はカクテルの名称から。

カルア(声優:理多)
甘えた声で無邪気に見える少女。しかし、たまに胸を突くことを一言言ったりする。
ラスティ(声優:紫華すみれ)
いたずらが大好きな少女。相手の弱みを探すなどのことに頭の回転が速い。かなりのトラブルメイカー。
ギムレット(声優:井村屋ほのか)
お酒が好きで妖艶な雰囲気で色気たっぷりの大人の女性。賭け事にものめりこみやすくだらしない。
杏露(しんるー)(声優:山本歩)
クソ真面目で自分・他人にも厳しく容赦がない。しかし、言われたことを信じ込みやすく、ラスティによくからかわれる。

娘々茶館
キャラクター名は第二次世界大戦時の航空機の名称(零戦・紫電・飛燕・ミーティア(英)・コメット(独)・サエッタ(伊))から。 このメンバーのみ管理人がいない。

ゼロ(声優:海原エレナ)
「ゼロ」は渾名で本名は別にある。気の荒い男のようにぶっきらぼうでそっけない。義理人情に厚く、優しい一面もある。
シデン(声優:新堂真弓)
お嬢様で澄ました態度で高見の存在でそっけない。しかし、思い込みが凄まじく、妄想の世界に浸るとしばらく戻ってこられない。
ヒエン(声優:伏見陽佳)
面倒見が良く明るい。やや完璧主義者で細かい事によくこだわる。
ミーティア(声優:AYA)
容姿の割には男じみており、さっぱり豪快な性格。しかし、勝負には理性を失う負けず嫌い。
コメット(声優:白鳥みるく)
笑顔で平和的、不思議な雰囲気の少女。かなり頭のネジが飛んでおり、常識外れな大ボケをする。
サエッタ(声優:夢咲朱花)
気さくな姉御肌。誰とでも打ち解けやすいが、無茶な行動を起こすと、その破天荒さで周りを困惑させる。

管理人
キャラクター名は柑橘類の名称から。 彼女達は「キャラじゃん」には参加するが、Hシーンのある攻略対象ではない。

シトラス(声優:籐野らん)
キャンディハウスの管理人。ネーブルガールズの1人。
ミネオラ(声優:工藤隆子)
フルーツパーティの管理人。ネーブルガールズの1人。
柑奈(かんな)(声優:温本茶奈)
ミックスジュースの管理人。プロローグでは説明も担当。ライムガールズの1人。
橘香(きっか)(声優:河合春華)
カクテルパーティの管理人。プロローグでは説明も担当。ライムガールズの1人。

ガイド役
キャラクター名は柑橘類の名称から。

ポンカン(声優:吉野なつき)
ゲームのルール等の説明や、主人公の案内役を担当。ネーブルガールズの1人。
※管理人とガイド役のプロフィールの詳細は、Navelのブランドキャラクターを参照。

その他
主人公(声優:1:海原エレナ2:小池竹蔵3:中澤アユム)
本作の男主人公。異世界に連れてこられ、ヒロイン達と勝負をする。出自やどうして選ばれたのかは不明。名前は自由に選べる。3種類の声優が担当し、キャラクターが微妙に異なる。
真聡(まさと)
Navel作品の常連端役。謎のスカートめくり少年。今回のキャラクターデザインは西又葵。彼に捲られる女性の下着(パンツ)はいつも縞々模様のものである。今回、捲られるのはポンカン。

2009年01月27日

量産型Yak-1は、翌1941年に初飛行した

量産型Yak-1は、翌1941年に初飛行した。大祖国戦争(独ソ戦)緒戦においてドイツ戦闘機に大敗を喫したソ連空軍は、イギリスやアメリカ合衆国から戦闘機を輸入するとともに各設計局へ新型機の生産を急がせたが、いずれの機体も諸々の不具合や欠陥を露呈し、また工場の疎開に伴う混乱から、生産の遅れと機体規格の完全な不統一といった問題が生じた。もっとも順調な生産成績を出していたYak-1でさえ、まったく同規格の機体がひとつも存在しないというほど生産ラインは混乱した。生産は、当初はモスクワのレニングラート大通り(レニングラーツキイ・プロスペークト)にあるヤコヴレフ設計局に隣接するGAZ-301とサラートフのGAZ-292の2ヶ所の工場で開始された。だが、1941年秋以降のドイツ軍のロシア侵攻により、生産ラインはスヴェルドローフスク州カーメンスク=ウラーリスキイのGAZ-286へ、さらに1942年後期にはノヴォシビールスクのGAZ-153へと疎開を余儀なくされた。GAZ-153ではそれまでLaGG-3の製造が行われていたが、この戦闘機の不具合と生産の遅れによりYak-1へ生産ラインが回されたのであった。生産されたYak-1では、機体設計上の欠陥や複雑な構造のための組み立て上の不手際から離着陸時や飛行中の事故が多発し、また戦闘時に機体構造に起因する不利も生じたため多くの改修が現場の判断で取り入れられていった。特に、Yak-1の高い着陸速度は初心者には高すぎる操縦技術を必要とし、失速による墜落や過速度によるオーバーランなど多くの事故を招いた。Yak-1では、離着陸時の操縦が最も難しいとされた。
キャリ プラス 百目柿 コロッケ ピロー ビリア ブルース プレイパ ライブ 二輪草 タイム ミルク とまぴ こげちゃ だいせん おおば ダブル ネービ ヨハネ ほろば リル アイアール カレンシー がいせい ハイピッ にがうり トラップ フィス マロニ 紅い橋 プロイ みぎわ フォト モールド パンク メーク トリオ カバラ ライチー ハラム ギキョウ ナビリネン げきけい ブタノール スワン ナレッジ コクシ ディン トルコ マグレブ

構造
Yak-1は当時の戦闘機の中でも最も軽量な機体のひとつであった。Yak-1は低翼機で、機体は混合構造であった。すなわち、胴体の骨組みはクロマンシル(クロム・マンガン・シリカ鋼)製の溶接管で、機首外板はジュラルミン製、尾翼は羽布製、主翼の大部分と後部胴体はいわゆる「デルタ合板」(デーリタ・ドレヴェシーナ;дельта-древесинаデーリタ・ドリヴィスィーナ)で作られていた。「デルタ合板」は積層材の一種で、正式にはDSP-10 (ДСП-10) と呼ばれ、クンツェーフスキイ工場のレオーンチイ・イオーヴィチ・ルィシコーフ (Леонтий Иович Рыжков) によって開発された。DSP-10は、フェノール・ホルムアルデヒド樹脂をアルコール溶液によって浸透させ、加熱によってプレス加工した薄い白樺材を、VIAM-ZB (ВИАМ-ЗБ) と呼ばれる接着剤で互いに貼り合わせたものであった。「デルタ合板」はたいへん丈夫で耐火性に優れるという長所を持ち多くのソ連機に使用されたが、その反面で重量がかさむという重大な欠点を持っており、これにより機体の操縦特性や機動性の悪化が招かれた。だが、当時のソ連国内の鉄鋼業事情を鑑みれば、主力機を混合構造の機体としたのは得策といえた。特に、重工業をはじめあらゆる産業の中心地であったウクライナが真っ先にドイツ軍による侵略と損害を受け、各工業施設がシベリア方面への疎開を余儀なくされたことを考慮すれば、もしYak-1をはじめとする多くの軍用機が全金属製で設計されていたら、それは大戦末期の日本のように致命的な航空機生産力の低下を招いていたであろう。西側では木製軍用機として合板で挟んだバルサ材と羽布張りの主翼をもったモスキートが特に有名であるが、ソ連ではYak-1やIl-2をはじめ終戦まで混合構造の軍用機がその主力となっており、モスキートもソ連ではごくありふれた構造をもつ航空機のひとつでしかなかった。ソ連で全金属製の機体が主力となるのは、戦後Yak-9PやLa-9が配備されてからである。

Yak-1は、1050馬力のM-105PAにより、最大580 km/hで飛行、高度5000 mまでは5.4分以内に到達できた。M-105PAはM-105Pを改良した液冷V型12気筒のレシプロエンジンで、「M」は「モトール」(моторマトール:「発動機」の意味)を意味していたが、のちに設計者ヴラヂーミル・ヤーコヴレヴィチ・クリーモフ (Владимир Яковлевич Климов、Vladimir Yakovlyevich Klimov、1892年 - 1962年)のイニシャルをとったVK-105PA (ВК-105ПА) に改称された。

Yak-1の武装はすべて胴体に集中位置されており、20mm ShVAK 1 門がエンジンのプロペラハブ軸上に、7.62mm ShKAS 2 門が機首エンジン上面に並べて搭載されていた。この武装は当時としては強力なもので、同時期に開発されたミグやラーヴォチキンの機体は7.62 mmや12.7 mm機銃しか搭載していなかった。これらの機体が打撃力不足で泣いたのに対し、Yak-1の20 mm機関砲ShVAKは脆弱な防御しか持たない当時の多くの機体に対して「一撃必殺」の威力を発揮した。ShVAKは、大型の爆撃機に対しても大きな威力を発揮した。LaGG-3の初期シリーズが搭載していた23 mm機関砲VYa-23が不調で機体の改良に伴い撤去されたのに対し、ShVAKは十分な働きを見せ、第二次大戦におけるソ連戦闘機の標準武装のひとつとなった。ShKASも、同じくソ連軍戦闘機の標準武装のひとつであった。ShKASは小口径で一発の威力には劣ったが、高い射撃速度により戦闘機など軽防御ではあるが軽快な動きを見せる機体に対し効果的であると考えられた。のち戦闘機の防御力の向上により7.62 mm機銃弾では威力不足となると、改良型のYak-1には12.7 mmのUBがShKASにかわって搭載されるようになった。これは望ましくない重量の増加を招いたため、のちのヤク戦闘機では機銃を1 門に減らしたものもあった。

発展
Yak-1は、開発時の仮想敵機のひとつであったBf 109Eに対しては有利に戦闘を遂行する能力を持っていたが、大幅に性能を向上した新型のBf 109Fに対しては若干分が悪かった。そのため、登場直後からすでに改良型の完成が強く求められた。

Yak-1の搭載エンジンは、当初のM-105Pから改良型のM-105PFに生産の途中から変更された。また、後方視界の悪さも深刻であった。幾度か改良作業が試行されたが結局は抜本的な機体構成の変更が必要であることが明白となり、いわゆる「水滴風防」と呼ばれる形の操縦席風防を採用するため後部胴体の高さが減ぜられた。風防ガラスの透明度の低さも問題で、一説には壜底から覗いているようだと言われるが、工場の製品の質の向上が求められた。また、前方特に下方の視界の悪かった第一風防の形状はYak-1でもいくつかの型が試され、その後後継機の開発過程で徐々に改良されていった。水滴風防とVK-105PFエンジンをもつ機体は、Yak-1Bと呼ばれている。Yak-1Bの基本デザインは後継機の基本デザインを決定付け、戦後のYak-9Pまでそのデザインは基本的に変更されなかった。翼幅を減じた新しい主翼の採用により低空性能を向上したYak-1Mは、「最良のヤク戦闘機」と謳われるYak-3のもとともなった。また、Yak-1の練習機型としてYak-1から開発されたYak-7は、Yak-1よりも優れた性能を示したためYak-1に代わって戦闘機として用いられるようになり、のちにもうひとつの主力戦闘機Yak-9を生み出した。

実戦
Yak-1は、その登場時にソ連を取り巻いていた情勢から、対独戦の行われていたヨーロッパ・ロシア、ベラルーシを含むバルト海方面、ウクライナ、カフカース、ベッサラビア、黒海方面などでの活動が特に知られている。Yak-1は、それまでのI-16にかわりソ連の主力前線戦闘機となった。「この機体を操縦できれば、操縦できぬ機体などない」と言われた前任機ほどではなかったが、混合構造機であるYak-1の飛行特性は初心者には極めて扱いにくい癖のあるものであった。その上操縦システムに関しての「容易化のための自動化」は限定的で、当時としてもたいへん原始的な操縦システムを搭載していると言わざるを得なかった。

だが、熟練者が操縦すればドイツ空軍の主力戦闘機Bf 109にも劣らない高い能力を発揮し、多くの撃墜王も誕生した。数多くあるYak-1を装備した部隊の中で特に有名なのは、スターリングラート近郊の町サラートフの防空を司った第586戦闘飛行連隊である。この部隊は、戦前より著名な女性飛行家であったマリーナ・ミハーイロヴナ・ラスコーヴァ (Марина Михайловна Раскова) らのヨシフ・スターリンへの請願により結成され、女性パイロットにより構成されていた。そのため別名「女性戦闘飛行連隊」(Женский ИАПジェーンスキイ・イー・アー・ペー)と呼ばれ、多くの優秀な女性戦闘機パイロットを輩出した。特に、12機の撃墜が公認されているリーヂヤ・ヴラヂーミロヴナ・リトヴァーク(Лидия Владимировна Литвак、リトヴャーク (Литвяк) とも)や11機の撃墜が公認されているエカテリーナ・ヴァスィーリエヴナ・ブダノーヴァ (Екатерина Васильевна Буданова) らは、この部隊から出発した女性撃墜王として知られている。リトヴァークはYak-1を駆りスターリングラートの戦いの時期に同空域で目覚しい働きを見せ、「スターリングラートの白ユリ」 (Белая лилия Сталинградаビェーラヤ・リーリヤ・スタリングラーダ) の名で一躍ヒロインに祭り上げられた。その他、Yak-1を操縦した撃墜王・ソ連英雄は、ロシア出身のアレクセーイ・ミハーイロヴィチ・レシェトフ (Алексей Михайлович Решетов)、ミハイール・ドミートリエヴィチ・バラーノフ (Михаил Дмитриевич Баранов)、パーヴェル・イーリイチ・パーヴロフ (Павел Ильич Павлов)、インノケーンチイ・ヴァスィーリエヴィチ・クズネツォーフ (Иннокентий Васильевич Кузнецов)、パーヴェル・ペトローヴィチ・カラヴァーイ (Павел Петрович Каравай)、アレクセーイ・パーヴロヴィチ・シーシキン (Алексей Павлович Шишкин)、イヴァーン・フェオクチーストヴィチ・ポポーフ (Иван Феоктистович Попов)、アレクセーイ・ヴァスィーリエヴィチ・アレリューヒン (Алексей Васильевич Алелюхин)、カザフスタン出身のセルゲーイ・ダニーロヴィチ・ルガーンスキイ (Сергей Данилович Луганский)、ウクライナ出身のニコラーイ・ヴァスィーリエヴィチ・ブリャーク (Николай Васильевич Буряк)、クリミア・タタール出身のスルターン・アメート=ハン (Султан Амет-хан) など、枚挙に暇がない。

だが、一般にYak-1登場前後、大戦初期におけるソ連のパイロットは民間航空や航空クラブ、農業機のパイロットなど民間出身者が多く、操縦技術は優れていても戦闘技術がなっておらず、機体の不良と相俟ってドイツ軍戦闘機相手に苦戦を強いられていた。ソ連ではこうした多くの一般人民が優秀なパイロットとして祖国を守ったと宣伝していたが、実際には彼らの多くは個人の未熟な戦術と上層部の拙劣な戦闘指揮から悲惨な最期を遂げていた。対するドイツ空軍からは100機を超える撃墜数を誇る撃墜王が誕生していたが、彼らの戦果の多くはソ連軍相手に戦った東部戦線におけるものであった。ソ連は、ウクライナやベラルーシにおいて多大な犠牲を払い、首都モスクワやレニングラートを含むヨーロッパ・ロシアは大きな戦禍を被った。ドイツ軍は、電光石火の進撃により容易くソ連を粉砕しうるものと宣伝した。

しかし、経験を積んだソ連軍部隊は徐々にその能力を上げていった。戦闘機部隊では、Yak-1が絶え間ない努力によりいかなるドイツ軍戦闘機にも引けをとらない機体へと改良されていった。それ以上にパイロットの手腕は経験の蓄積により、技術的にも戦術的にも劇的に向上していった。大戦中期以降、ドイツ軍はかつてのような一方的な戦闘を行うことは不可能になっていった。ドイツ軍は多くの熟練者を戦闘で失い、指揮系統は混乱していた。また、占領地域での悪質な統治で嫌われたことも、戦争遂行の妨げとなった。ドイツ軍爆撃機部隊は長らくJu 87、Ju 88、He 111、Do 17などを主力としていたが、強まるソ連軍防空戦闘機の反撃に対し機体の防御機銃を増設するなどの対策をとった。だが、機銃の増備や装甲板は重量の増加と飛行速度の低下を招き、ますます高速重武装化するソ連軍戦闘機の前に劣勢を強いられた。さらに、厳しい冬の気候もドイツ軍を苦しめた。もっともこれはドイツ軍側にとってのみのことではなくソ連軍側にとっても同様に厳しいものであったのだが、ソ連軍の装備の方が氷雪の中での稼働率に優れていた。Yak-1など多くの機体で、冬期専用の装備をもった機体も配備された。これは通常の車輪式降着装置にかえて「スキー板」を履かせたものであった。第一次世界大戦時より戦後のジェット機時代にいたるまで、航空機に「スキー板」を履かせることはロシア・ソ連のひとつの伝統といえた。

結局ドイツ軍はロシア各地で壊滅的な打撃を被り、劣等であると看做していたスラヴ人の軍隊に完全に遅れをとることとなった。ソ連軍の対独反撃の初期に目覚しい活動を見せたYak-1は、それ自体はドイツ軍戦闘機に対して圧倒的な優位を獲得するには到らなかったが、ドイツ軍への反撃の烽火を上げた新生ソ連軍の象徴的な戦闘機となった。「ヤク戦闘機」は朝鮮戦争においてMiG-15が登場するまでソ連戦闘機の代名詞となったが、その「輝かしい」歴史はYak-1から始まったのである。そのため、機体の抱えていた数々の欠陥にも拘らず、今日もロシアなどではYak-1を「最も偉大な戦闘機」のひとつに数え上げることも少なくない。

海外での運用
Yak-1はソ連のポーランド人部隊である第一戦闘飛行連隊「ワルシャワ」(?Варшава?ヴァルシャーヴァ)やソ連のフランス人部隊として機能した自由フランス空軍の「ノルマンディー・ニーメン」 (Normandie-Niemen;「ノルマーンヂヤ・ネーマン」;?Нормандия-Неман?ナルマーンヂヤ・ニェーマン;「ノルマンディー・ニェメン」などとも)でも運用されソ連人以外にも比較的なじみのあるソ連製戦闘機となったが、後継機であるYak-9が広く海外で運用されたため、Yak-1はそのほとんどがソ連国内で現役を終えた。例外はユーゴスラヴィアで、戦後ごく少数ではあるがYak-1が運用された。また、戦時中に捕獲されたいくつかの機体は黒い十字架を機体に描かれ、ドイツ空軍で試験運用された。

派生型
Ya-26(Я-26ヤー・ドヴァーッツァチ・シェースチ):1938年より開発が開始された試作戦闘機案。当初はM-106エンジンを搭載する予定であったが、エンジンの開発が間に合わなかったためM-105Pに変更された。実機はI-26として製造された。
I-26(И-26イー・ドヴァーッツァチ・シェースチ):1940年に初飛行した試作戦闘機。Yak-1の原型となった。試作機は3 種設計され、それぞれI-26-1(またはI-26-I)、I-26-2(I-26II)、I-26-3(I-26III)と呼称された。エンジンはM-105Pを搭載した。I-26は、他の設計局の機体と比較試験され模擬戦において優れた成績を出した結果量産化が決定され、同年12月1日よりYak-1の制式名称で呼ばれることとなった。
UTI-26(УТИ-26ウーテーイー・ドヴァーッツァチ・シェースチ):1940年に初飛行した、試作教育練習戦闘機(Учебно-тренировочный истребитель)。武装や機体構造の簡略化により生産性を高めるとともに機体を軽量化した結果、操縦性能も向上した。ラジエーター位置は、後席の設置による重心移動を調整するため前方に移動させて主翼下面に取り付けられていた。これは、以降の発展型の標準構造となった。仕様の異なるUTI-26-1とUTI-26-2が製造され、試験ののちYak-7UTIとして量産化された。この機体がYak-1よりも優れた性能を発揮したため、すぐに戦闘機型のYak-7Mが開発された。この機体は、さらに改良されYak-7Aとして前線へ投入され、暫定的なYak-1の後継機となった。
I-28(И-28イー・ドヴァーッツァチ・ヴォースィミ):I-26-2から開発された試作高高度迎撃戦闘機。胴体が全金属製となり、1160馬力のM-105PDエンジンを搭載した。1940年に初飛行しYak-5の名称が与えられたが、量産はされなかった。研究成果は、Yak-7やYak-9の開発に生かされた。
I-30(И-30イー・トリーッツァチ):I-26から開発された試作戦闘機。主翼が全金属製となり、M-105Pエンジンを搭載した。ふたつの型が製作され、I-30-1が20 mm機関砲ShVAKを3 門と7.62 mm機銃ShKASを2 門、I-30-2はさらにShKASを2 門増備と、I-26より重武装だった。1941年に初飛行しYak-3の名称が与えられたが生産されず、この名称はのちにYak-1Mの発展型である別の機体に用いられた。
Yak-1(Як-1ヤーク・アヂーン):M-105PAエンジンを搭載した基本型。1941年に初飛行、同年中には 攻撃戦闘機(Ударный истребитель型も開発されたが、これはYak-1に爆弾運用能力を付加した機体で名称はYak-1のままであった。この機体は、RS-82ロケット弾2 発または100 kgまでの爆弾2 発を搭載できた。また、冬季仕様として、車輪の代わりにスキーを装着した機体も多数存在した。この機体は若干速度性能等に低下が生じていたが、通常の車輪装備機が運用できないような条件下でも使用でき、大きな働きを残した。1941年9月から1942年2月にかけて830機近くが生産された。この機体も、正式の名称はYak-1のままであったが、俗に「冬のYak-1」(Як-1 ?Зимний?ヤーク・アヂーン・ズィームニイ)と呼ばれている。なお、冬季には通常の暗色系の機体迷彩は、白い塗料で塗り潰されていることが多かった。
Yak-1 M-105PF(Як-1 М-105ПФヤーク・アヂーン・エーム・ストー・ピャーチ・ペー・エーフ):1180馬力のM-105PFエンジンを搭載した試作機。1942年に初飛行。M-105PFは、その後Yak-1の標準エンジンとなった。
Yak-1 M-106P(Як-1 М-106Пヤーク・アヂーン・エーム・ストー・シェースチ・ペー):1350馬力のM-106-1skエンジンを搭載した試作機。1942年に初飛行。
Yak-1B(Як-1Бヤーク・アヂーン・ベー):スターリングラート上空に登場したドイツ空軍新型戦闘機Bf109Gに対抗すべく開発された機体。Yak-1b (Як-1б) とも書かれる。エンジンをM-105PFに換装した。中央流体力学研究所 (TsAGI) で開発され、1942年に初飛行した。操縦席を改設計したことも大きな変更点で、風防の形状をそれまでの後部胴体へ直線的に繋がる空気力学的に優れていると考えられる形状から、より視野範囲に優れたいわゆる「水滴風防」へ変更した。このスタイルは、位置の変更や風防形状の改良などはあったものの、基本的には最後のYak-9P、及びジェット化されたYak-23まで受け継がれた。Yak-1Bは、20 mm機関砲のShA-20 ShVAKと12.7mm機銃のUB各1 門を搭載した。
Yak-1M(Як-1Мヤーク・アヂーン・エーム):すべてのドイツ戦闘機に勝る性能をもつ機体の開発を命ぜられたヤコヴレフ設計局が開発した改良型。大幅な改設計により機体を軽量化し、M-105PFを搭載した。「M」は「蚊」を意味する「モスキート」(москит) の略号である。操縦席は、Yak-1B同様に広視野性の「水滴風防」が採用された。それ以外に、主翼幅を80 cm減じ翼面積も小さくするなど大きな設計変更を行い、上昇力など低空における性能を高めた。一方、Yak-1の量産化に際し廃止された尾輪の引き込み装置は復活された。機体はYak-1Bと同じM-105PFエンジンを搭載して1943年2月15日に完成し、2月28日から6月7日まで工場試験、同日から7月4日まで国家試験を受け好成績を修めた。Yak-1Mは、パイロットからスピットファイアMk.Vを凌ぐ飛行性能と空中格闘戦力を認められた。欠点は、相変わらずの冷却システムの不良と灯火油の漏れ、そして無線装置の欠如であった。無線装置は次第に搭載されたが、雑音の多さで顰蹙を買った。8月、機体は採用の見込みを広げるためTsAGIにおいて風洞試験を行った。その結果は基本的に有望なものであったが、大幅な機体構造の変更が必要であることが明らかになった。武装も、MP-20とUB各1 門から軽量のShA-20M 1 門とUBS 2 門に変更された。軽量化の努力により、Yak-1Mの総重量は装備の充実にも拘らず初期のYak-1より軽い2660 kgであった。この機体ではYak-1開発当初の本命であったM-106-1skエンジンもテストされたが、結局採用はされなかった。M-106-1-skエンジンはYak-9でも試験されたが、結局このエンジンを搭載する量産機は製作されなかった。
Yak-1M M-107A(Як-1М М-107Аヤーク・アヂーン・エーム・エーム・ストー・スィェーミ・アー):Yak-1Mに、1450?1650馬力の液冷V字12気筒エンジンであるM-107A (のちのVK-107A)を搭載した機体。このYak-1Mは、1942年11月18日に高度6250 mにおいて716 km/hの速度を記録した。だが、このときM-107Aはまだ完成域に達しておらず、一方M-107Aの完成したときにはYak-1の生産はとっくに終了していた。M-107Aは、Yak-1の直系の子孫であるYak-9Pに搭載され、この機体は最後のレシプロ・ヤク戦闘機となった。
Yak-1M M-105PF2(Як-1М М-105ПФ2ヤーク・アヂーン・エーム・エーム・ストー・ピャーチ・ペー・エーフ・ドヴァー):M-107A搭載型の開発が軌道に乗らなかったため、従来のM-105エンジンの発展型を搭載する機体の開発も行われた。M-105PF搭載型のYak-1Mの試験の結果必要とされた変更が施された機体は、1943年9月17日に完成した。尾翼の改設計が行われ、機首も変更された。エンジンは、新たに開発されたM-105PF2に変更された。その後、プロペラはVISh-105SV-01に変更された。このYak-1Mは、別名「ドゥブリョール」(?Дублер?)、つまり「代役」と渾名された。「代役」は、工場試験と国家試験を好成績で通過して新たにYak-3の制式名称で量産に移されることとなった。「代役」はYak-1と比べて250 kgもの軽量化に成功しており、低・中高度における高い格闘性能と十分な速度性能を誇った。よく似た機体であるYak-9とYak-3であるが、直接の元になった機体がYak-7とYak-1Mと異なることから機体構造が外見上も異なっている。Yak-3は、Yak-1の直接の子孫と呼ぶべき機体であった。オレーク・コンスタンチーノヴィチ・アントーノフの手により開発されたこの戦闘機は、それまでソ連機に分の悪かった低高度においてドイツ軍戦闘機相手に優位に戦闘を展開でき、La-5FNやLa-7と並んで二次大戦におけるソ連戦闘機の決定版と呼ばれるようになった。一方、戦後になってようやくVK-107A(M-107Aから改称されていた)を搭載する「本命」のYak-3が完成されたが、VK-107Aは結局Yak-3の機体構造と相性が悪く、「本命」は少数が量産・配備されたに留まった。姉妹機であるYak-9Pが、主力戦闘機の座を占めることになった。
※Yak-1の派生型の名称は資料によってまちまちであり、ここでいうYak-1BをYak-1Mと紹介するものもある。これは、Yak-1の派生型を区別する名称が後付けで決められたことに由来すると考えられる。特に、Yak-1Bの名称は当時の正式なものというわけではない。機体構造は生産ラインによってまちまちであり、一括して形式分けが難しいというのが二次大戦時のソ連機の実情である。形式分けとは規格の統一のことにほかならず、運用側としては機体規格の統一は必要な課題であったが、それは国土上での戦争という国内の混乱事情により不可能であった。このような事例は、敵国ドイツでも見られる。なお、そのほかのエンジン名を付けた名称も便宜的なもので、それらの試験機に固有の正式名称が付けられていたということは勿論ない。

I-26-2
初飛行:1940年
翼幅:10.00 m
全長:8.48 m
翼面積:17.15 m2
空虚重量:2318 kg
通常離陸重量:2803 kg
発動機:M-105P (М-105П) 液冷エンジン ×1
出力:1050 馬力
最高速度(地表高度):490 km/h
最高速度:586 km/h
実用航続距離:700 km
上昇力:833 m/min
実用飛行上限高度:10200 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1(弾数130発)、7.62 mm機銃ShKAS(ШКАС) ×4

Yak-1
初飛行:1941年
翼幅:10.00 m
全長:8.48 m
翼面積:17.15 m2
空虚重量:2445 kg
通常離陸重量:2950 kg
発動機:M-105PA(М-105ПА)液冷エンジン ×1
出力:1050 馬力
最高速度(地表高度):472 km/h
最高速度:569 km/h
実用航続距離:650 km
上昇力:877 m/min
実用飛行上限高度:10000 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1、7.62 mm機銃ShKAS (ШКАС) ×2

Yak-1(冬季仕様)
初飛行:1941年
翼幅:10.00 m
全長:8.48 m
翼面積:17.15 m2
空虚重量:2475 kg
通常離陸重量:2930 kg
発動機:M-105PA(М-105ПА) 液冷エンジン ×1
出力:1050 馬力
最高速度(地表高度):472 km/h
最高速度:441 km/h
実用航続距離:533 km
上昇力:847 m/min
実用飛行上限高度:10400 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1、7.62 mm機銃ShKAS (ШКАС) ×2、その他RS-82ロケット弾用牽引架 ×6 を装備可能

Yak-1B
初飛行:1942年
翼幅:10.00 m
全長:8.48 m
翼面積:17.15 m2
空虚重量:2394 kg
通常離陸重量:2883 kg
発動機:M-105PF(М-105ПФ) 液冷エンジン ×1
出力:1180 馬力
最高速度(地表高度):531 km/h
最高速度:592 km/h
実用航続距離:700 km
上昇力:926 m/min
実用飛行上限高度:10050 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1、12.7 mm機銃UB (УБ) ×2

Yak-1M
初飛行:1943年
翼幅:9.20 m
全長:8.60 m
翼面積:14.85 m2
空虚重量:2133 kg
通常離陸重量:2655 kg
発動機:M-105PF(М-105ПФ) 液冷エンジン ×1
出力:1180 馬力
最高速度(地表高度):545 km/h
最高速度:632 km/h
実用航続距離:585 km
上昇力:1220 m/min
実用飛行上限高度:10700 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1、12.7 mm機銃UB (УБ) ×1

運用国
ソ連
赤色空軍
自由フランス
飛行隊(ソ連における)
ポーランド
飛行隊(ソ連における)
ユーゴスラヴィア
空軍及び防空軍

スルターン・アメート=ハンのYak-1
アレクセーイ・アレリューヒンのYak-1?ズヴェーリ?(野獣)
Yak-1?ズヴェーリ?(野獣)のエンブレム

Yak-1の発展型機
Yak-3
Yak-5
Yak-7
Yak-9
Yak-11
Yak-15
Yak-17
Yak-21
Yak-23
S-49
ソ連軍の戦闘機

I-15
I-152
I-153チャイカ
I-16
I-17
I-180
I-185
I-190
MiG-3
LaGG-3
La-5
La-7
La-9
La-11
Pe-2
Pe-3
ハリケーン
スピットファイア
P-39エアラコブラ
P-40ウォーホーク/トマホーク/キティホーク
P-63キングコブラ
Yak-1の敵戦闘機

Bf 109(枢軸国軍の主力戦闘機・戦闘攻撃機)
Bf 110(枢軸国軍の複座双発戦闘機・夜間戦闘機)
Fw 190(枢軸国軍の戦闘機・戦闘攻撃機)
He 112(ルーマニア軍の戦闘機)
IAR-80(ルーマニア軍の戦闘機)
IAR-81(ルーマニア軍の戦闘機・戦闘攻撃機)
P.11(ルーマニア軍・ハンガリー軍の戦闘機)
P.24(ルーマニア軍・ブルガリア軍の戦闘機・戦闘攻撃機)
B-135(ブルガリア軍の戦闘機)
B-534(ブルガリア軍の戦闘機)
D.520(ブルガリア軍の戦闘機)
Re.2000(ハンガリー軍の戦闘機)
M.S.406(フィンランド軍の戦闘機)
M.S.410(フィンランド軍の戦闘機)
Mörkö-Morane(フィンランド軍の戦闘機)
その他Yak-1と同クラスの戦闘機

三式戦闘機(キ61)飛燕(日本製の戦闘機)
MC.202フォルゴーレ(イタリア製の戦闘機)
G.55チェンタウロ(イタリア製の戦闘機)
IK-3(ユーゴスラヴィア製の戦闘機)